昭和五十六年六月十四日 朝の御理解


御理解第八十五節「女の身の上、月役、妊娠、悪阻に、腹痛まず腹帯をせずして、産前身軽く隣知らずの安産。産後、よかり物、だんご汁をせず、生まれた子に五香いらず。母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日の通り。」


 人間の少しばかりの、知識とか常識をもってしてはとうてい分からない御理解だと思うです。又なら、これを聞いて実行するという事になったら、いよいよ至難な事です。けれども、教祖の神様が嘘の教えを下さっておるとは思われんところから、それに一歩づつでも近づかせて頂こうとするところに信心の精進があります。それが身についてくるという事です。
 十日のお月次祭の事でしたが、北島さんがお参りして居られました。朝も参ってみえます。最近はもうそれこそ熱心に参ってはおられましたけれども、おかげを受けな、おかげを受けたい、商売繁昌のおかげを受けたいというだけがお参りであったのが、いつもお話ししますように、まあ云うなら医者から見放された病気、現代の医学ではどうにも出来ないという病気、もうこれを支えるのは注射と薬で、まあ命のある間は注射と薬によるより外にはないという宣告を受けて、それこそノイローゼになるように、夜ねむられんようになられたり心配されてね、そしてその中には、間にはいろいろと宗教の上でもあちらこちらから成る程それがほんなこつかもしれんといったような、迷いが起こるような強烈な働きもあったのだけれども、そこを押し切っておかげを頂いていこうとするその姿勢に神様が感応ましましたかのように、次々とお知らせを下さるようになった。
 だからそのお知らせに基づいて信心の稽古されるようになったから、もう信心がいよいよ信心になっていかれた。いわゆる、おかげ信心から云うならば、おかげを頂くという事から、信心を頂くという事になってきた。ね、それこそおかげで、おかしい位に眠れるようにもなられた。ね、おかしい位に体調が整うてきた。病院にやらせて頂いたら、それこそこげな奇跡があるだろうかと病院長が、病院の先生が言われた。「こりゃあんたようなった。なくなっとるばい、あんたが病気は。」というようなおかげ、今毎日毎日が有り難い、勿体ないであった。勿論朝参りされるからここ数日前一時止めて休業された
 クラブ、アンナという何でしょうかあの女の人をたくさん置いてバーのようなもんじゃないでしょか。だからママさんが居らなければ出来ないような商売ですから、けれども最近の北島さんの信心はそんなこつじゃない、もう神様にお任せするという事、そしてやはり月次祭には参拝させてもらわにゃおられんという信心。十日のお月次祭にはそれこそ有り難い勿体ないで頂いて帰らせて頂いたら、お家はもう席がない位であったというのです。ね、これなんかは、今朝の御理解と同じことなんです。夜の商売で、ママさんが中心であり、それで居らないという、そりゃこういう商売である事も、忙しい事も神様が御承知なのだから、今日はお月次祭御無礼しようというても、いいのだけれどね、例えば今日の皆さんがこの婦人の懐妊、出産という事についての今の、現代医学から言うたら、とてもそんな馬鹿なというような、離れ業的な教えでしょう。皆さん聞かれた通りですね。それをはなして教祖の御教えに準ずるというのですから、理屈は同じですね。ほお北島さんがなら月次祭の時、そんなにまあ忙しいのでもね、放っておいて神様の方へ向かわっしゃったら、いつもよりかえってお商売が繁昌しておった。そんならいっちょそげなふうにしようというたのではね、おかげにならんのです。神様の間違いなさを頂きにも頂いて、いわゆる信心が分かって来たら、お月次祭といえば月に何回かの、云うならば感謝、御礼のお祭りと言われるのであるから、日々はお願いに参る、月次祭にはお礼の参拝をさせてもらわなければとこういうね。それがそうせずにはおられんところに、そういう働きが起こってくる。だからこうこの御理解なんかでもね、すこしばかりの常識とか知識とか医学なんかがです、とてもそげな無茶な離れ技のような事、とても出来ない。けれども言われたからというてするのじゃなくて、教祖の御教えに準ずるという心ね。だからそこには最後にある子供の上に虫気すらもないようなおかげが受けられると言っておらます。生まれた赤ん坊にすぐに母の乳飲ませと言うておられますね。ですから信心というのはそうい私は過程のものである。
 昨日、十三日会あのように盛大におかげを頂きました。皆さんのお話しを頂いている時に頂いた事を最後に聞いて頂いたんですけれども、最後にお茶が出ました時に、私の前にらんたい漆器でそれも貝の形をした目の粗いらんたい漆器の籠にブラジルから送って来ましたというて、あのチョコレートを珍しいチョコレートを入れて持ってまいりました。それを頂くんです。
 お互いの信心はね、目が粗い。皆さんのいろいろ話に聞かせてもらった十三日会といや合楽の、云うなら信心に本当に傾倒し帰依して居る人達が、ああして沢山集まって来る。 昨日は伊万里支部なんかはバスでしたよ。四十名からのお参りがありました。ただ事とは思われないもうおかげを頂いて合楽の信心に傾倒しきっていっておられる人達がああしてまあ十三日会、十三日会というて朝から御用させてもらう、昼からは研修に参加する。 昨日は私は始めてのような方、まあこれは余談ですけれども、いろんな方が参られた。今日は十三日会だそうですからというて、ちゃんとこう御礼十三日会ち書いちゃる。ね、御礼十三日会の日にはただ参っただけじゃでけん。それこそ神様に喜んで頂ける御用の一つもさせて頂こう、日頃には出来ないお供えも今日はさせて頂こうというのが御礼十三日会。だから昨日参って来られた方はそういう御礼十三日会何かを知ってる筈がないのです。あなたは、御礼十三日会ち書いちあるが、誰かから聞いてみえましたかち聞いたら、山本さんのお導きで参りました。今日は十三日という、こういうような内容のお祭りですからね。御礼十三日会のお初穂をこうこうなさるといいですよと教えて頂いたから知っておった。ね、ただ参るの拝むのだけじゃないの、十三日会はという位に内容のある人達が、内容のあるお話しを聞いて終日をですね、朝から四時半までですから、殆ど終日を御神願成就の事の手立てを習わせて頂こう、神習わせて頂こうというのが十三日会です。
 お導きをするというても、私は山本さんのその話を聞いてから感心しました。兎角よか話があるけん聞きに行きなさい、その内容をいよいよお話しをしてこうこうとこう、いわゆるお導きとはそういうような意のこもったものでなからなければいけないと思うですね。まあ余談になりましたけれども、その最後の私の話の中に、云うなら、らんたい漆器で立派に出来ておるそれが貝の形をしておる籠にチョコレートが盛ってある。神様はさして今日、云うなら集まっておる十三日会、会というのはそういう意味だろうと思うんです。
 十三日会に人がこう集まっておるけれども、中に云うならばあまい、おかげだけは頂き、事が出来るけれども、云うならばあまいおかげではない、場合にはにがい思いをするようなものもあるかもしれないけれども、それこそお徳を頂くんだ、力を頂くんだという事になって、それが分かって、それを頂けるという信心、云うなら“水も漏らさぬ信心”と頂いたんです。
だからおかげを頂くだけではなくて、お徳を、力を頂く力を頂かなきゃいけん。そんなら大変それこそ、目の詰まった信心させてもろうて、それこそ水も漏らさん信心だから、それこそいつもいつも神様を心に頂き続けて、お粗末どんが、御無礼どんがあっちゃならん。それでなからにゃ、水も漏らさぬ、とてもそういう事はなかなか出来んというふうに思いやすいのですけれども、神様は次に教えて下さったのはね、云うなら“馬鹿と阿呆で道を開け”という御教えがあるが、水も漏らさぬ信心とはそれだと、云うなら偉大なる馬鹿と阿呆になる事なんだとね。それを又、せんじ詰めると成り行きを大切にするとか、黙って治めるとか、土の信心という事になるのでしょうか。
 甘いチョコレートのようなものじゃなくて、臭くて、苦くて食べられないというようなものもあるかも知れないけれども、臭いと思うておったものが、かえってニンニクのように体に元気を与えてくれたとか、こげな苦いもんと思うておったものが、それこそセンブリのようにです、心の云うなら心の胃腸を健全にして頂く事になったとか、そこで初めて頂いたものが全部血にも肉にもなるようになったという、水も漏らさぬ信心とはそういう信心だというお知らせを頂いたです。ね、例えば私は馬鹿と阿呆にならなければまあ、云うならばね、北島さんのそうじゃないけれども、人間心で今日は兎に角、自分たちの商売は水商売だから、自分がおらんならん。これは普通誰でも考える。勿論おかげおかげの時代はそうだったでしょうけども、信心、真心という信心を頂こうという事になったら、それこそお粗末には出来なくなった。参らずには居られなくなった。そしてそん時のお供えは、松竹梅の大きな超特級のお供えがありますが、その心をお神酒のお供えに現して参拝された。勿論自分が居らんからその困った事にでんなってだんおらんだろうか、いろんな事の、だけれどもそこんねきはどうでもよい事になってきた。そりゃあねそういう気になると、不思議な不思議な働きが起こってくるんです。先達からもう私は昨日、文男先生から聞かせて頂いたんですけれども、ああいう所へ飲料というのは、半年払わんどったらもう払わんでよかそうですね。法的には、だからそういうそのあれですから、そういうのが沢山引っ掛かりがあるわけです。どうしても集金が寄らない人があって、お取り次ぎを頂いて集金にママさんが行かれた。ところが本人が出かけた後で居なかった。だから次の家に又、やらせて頂いたところがばったりその人に合った。そうしたら、済まんけど月賦にしてくれ、そのまあ言うたとこう。そうしたら、そこの御主人が「君、そういう事を言わずに僕の預金から引き出して払うてしまいなさい」ち言わっしゃったげな。ね、そこに行く事も要らん、月賦でする事もいらん、そりじゃなくて取れんはずのが、そういう事で済むおかげを頂いたというお届けが、それは何日か前でしたがございました。
 それには今いうお願いをしたから、おかげ頂くじゃなくて、そういう離れ技的なような信心が、離れ技ではない。それがそうする事が当然の事として出来るようになったんです。信心ちゃそうなんですね。もう家のこつはほったらかしてというと、いかにも離れ技のごとあるけれどもね。そうせずにはおれないという信心が、そこに生まれた時に、やっぱりお月次祭には御無礼する訳にはいかんとしてお参りをされた。帰ったらこんな事は無いといういつもこんなお客さんが、それこそ満席で夜遅うまで賑わいよったというようなおかげにはならないなという、本当の神様の働きにゃ恐れ入ってしまうというその心が又、次の信心をいよいよ育てていくのです。こうする事は出けん。こうしたらこげなおかげを頂いたというのとは全然違うんです。そうせずにはおられなかった。いわゆる、信心が分かってくるとそうせずにはおれんのですね。
 私はそういう信心がどういう信心から生まれてくるかというと、いよいよね、いわゆる馬鹿と阿呆で道を開けと仰せられる、云わば道でなからなければ本当のお徳につながる道にはならない。
 十分のリズムでいうならば、儲け出した、残ったというのは本当のこつじゃないね。私は今日の御理解はそういう御理解だと思うんです。今の例えば妊産婦の人にこういう、云うなら教祖が百年前に教えておられるこういう事をです、実行するとても実行出来る者はおるまいとこう思う。お医者さんからいろいろと云うならば、脅かしを頂くか、こりゃずうっと通うて来なさい、注射ば毎日来るたんびに打たなきゃいけん、こう動いちゃいかん、こうしちゃいかん、だからやっぱそういう観念がいつの間にか滲みてしもうて、云うならば出来んけれども信心とは一歩でも神様の教えに近づかせて頂こうとする、その精進、それは今も言うように、自分の事は放っておいてそして神様の事をそうせずにはおれないという心になっていくそこが信心なんです。それを稽古していくのです。
 ですから、云うならば利口すぎであっては、教祖の御教えは行じられません。理屈が詳しいし、常識が発達しとるから、だから、利口でもなからなきゃ常識もないと云う、こりゃまああんた馬鹿んごたる男のとまあ言われるかも知れんけれども、信心でいう馬鹿と阿呆というのは、例えば、たとえ勉強していても、常識があっても、それをそういう観念をかなぐり捨てれる程しの信念、云うならば神様を信ずる心が頂けてくるという事が、云うなら水も漏らさんおかげという事になり、甘いチョコレートではないね。そこには苦いも臭いもいろいろあるかもしれんけれども、それこそが力を受ける元、徳を受ける元であるという事も一緒に受け漏らさずに頂いていこうという程しのいかげを頂く為には、水も漏らさぬおかげ、信心はそういう、云うならば馬鹿と阿呆で道を開かせて頂こう、頂けれる程しの信心を頂いた時をいうのではないでしょうか。 どうぞ。